変と普通
「変」とか「変わってる」という言葉はいつからか褒め言葉になった。
みんな、普通といわれるより変わってると言われる方がいいらしい。
言葉の意味だけを考えると「変」という言葉の方が「普通」という言葉より悪い意味をさす。しかし「普通」という言葉には「並」という語感があり、「他人と同じ」というイメージがある、
みんな他人と違う「特別な存在」でいたいのか?
普通=平凡という図式で考えればみんな普通でいたくないと思うのかもしれない。平凡で他人と変わるところのない同じ個性、すなわち個性のない人間になりたくない。他人とは違う、自分は他人とは違う自分でありたいと願うなら「普通」とは忌むべき言葉であり「変わってる」と表現されることは「平凡」「無個性」からの逸脱と言える。
「‘普通’って言っちゃ駄目なんですよ。」
と忠告を受けた。特に学生あたりに「君は普通だね。」などと言ったら場合によっては侮辱と取られるというのだ。つまり「無個性」呼ばわりをしたも同然ということらしい。
そういえばアルバイトに「君は普通だねえ。」と言ったら
「えー、そうですか?オレよくみんなに‘変’って言われますけど。」
と返事が返ってきたことがある。
どうも自分は「変」だということをアピールしたいらしい。つまり自分は他の人とはちょっと違うというつもりらしい。そういうことをアピールしたい時点で悲しいほど彼は平凡といえるのだが。
ああ、なんと愚かしく無個性な人間がこの世に増えたのだ。
僕が知る個性ある人間はみな他人から「変」とか「普通」などとどう表現されても「ふーん」の一言で済ませてしまうヤツラばかりだ。逆説的に言えば他人からの「変」「普通」という言葉にいちいち反応するほど「無個性」かつ「平凡」な人間と思われる。
僕のごとくに物心ついた頃から家族に「変」と言われ、幼稚園で「みんなとは違う行動をする子」と評価され、学校で「不良ではない問題児」と印を付けられていた僕からすると「変」「変わってる」などと言われて喜ぶやつらがなんと愚かしく思えることか。「普通」であることの偉大さを思い知れ。個性ある人間は「普通」でありながらその行動や言葉の中に何かを潜ませているものだ。上面の言葉に個性を求める無個性さを恥じろ。
僕などは「普通」と言われたかった。「変」と言われすぎて心の中にトラウマが生まれるどころかトラもウマも放し飼い状態、もはや蓄養マグロのごとくに脂も乗って大量出荷可能なほどだ。ムガー!ヒヒーン!
ここ数年はようやく「変」と言われることにも慣れてはきた。また努力(?)の甲斐もあってか「普通」と呼ばれるようになってきた。
「ナカムラさんは‘変’じゃないですよー。」
とか昨日も言われたのだ。
そう、僕は変じゃない、変じゃないんだ・・・・・。普通、僕は普通なんだ。僕はみんなと一緒で普通の人なんだ、決して変な人間じゃないんだ。
「ナカムラさんは普通のフリしたなにかにつけて何かが‘オカシイ人’ですよねー。」
・・・・みんな、今度、急に暴れだしたらごめんね。