鬼 2005-06-24
ドンッ!
背中を突き飛ばされた。
朝の駅のホームだった。
一瞬なにが起こったのかわからなかった。反射的に右足を大きくホームの端ぎりぎりに踏み出しなんとか持ちこたえて転倒することは免れた。一瞬だけ遅れて電車がその右足のつま先をかすめながらホームへ入ってきた。体中からいやな汗が噴出した。
硬直したまま三度深呼吸をする。
・・・・・・危ないなんてものじゃない。つまりこれ、これは、僕は今、殺されそうになったのか?
はっきり言って、人に恨みを買う覚えがまったくないとは言わない。が、殺されなきゃならないほどの恨みを買う覚えはまったくない!
猛然と腹が立ってきた!
誰だ?! 今僕を後から突き飛ばしたヤツは?!
僕が怒りの形相で振り返ると悲鳴が上がった。こいつが犯人か?
悲鳴を上げたのはどこかで見たことがあるような、でも誰だか思い出せない男だった。男は悲鳴を上げながら僕から逃げるように少しあとずさると僕とは反対方向へ走り出した。いやその人だけじゃない、みんな走っていた。悲鳴が合図であったかのように、朝の駅のホーム、ラッシュの時間帯、数十人の人、ひょっとしたら百人以上の人が僕から逃げるようにホームの隅の階段目指して走りだした。みんな必死みたいだ。争うような勢いで階段へ殺到し、すごい勢いで階段を昇っている。
わずか20秒ほど、僕があっけに取られている間にホームから人っ子一人いなくなった。
・・・・・なにがなんだかさっぱりわからない。
とりあえずどうしよう?
僕は今のこの状況が理解できず、とりあえず何事もなかったように(ちょっと無理があったが)振舞うことにしてみた。だからとりあえず、電車に乗ることにしてみた。さっき僕が轢かれかけた電車だ。開いているドアに向かい僕が向き直り足を踏み出した瞬間、また‘それ’が起きた。
僕が乗り込もうとしたドア付近の乗客が悲鳴を上げながら後ずさりだした。そしてまた僕があっけに取られている間に電車の中の乗客たちは僕が乗り込もうとしてる以外のドアから我先にと飛び出し始めた。そしてみんなまた一目散に階段めがけて走り出した。乗客たちは残らず、男も、女も、学生も、サラリーマンも、みんなどう見ても僕から逃げるように電車から飛び出し必死に走っていた。一分もかからずに電車の中は無人になった。よく見ると電車の運転士まで飛び降り、あろうことか線路の上を走り逃げていった。
どうなっているんだ?
どう考えてもみんな僕から逃げているようだ。しかも電車の運転士まで。いったいなんだって言うんだ?
わけもわからずにまた猛然と腹が立ってきた。
僕にはみんなが逃げていく理由が分からない。だったらわかるヤツに聞けばいい。逃げてるヤツを捕まえて聞けばいいのだ!
階段の方を見ると逃げている連中の最後尾が見えた。よし、なにがなんでもやつらのうちの誰か一人でいいんだ、捕まえてやる!
僕は雄叫びを上げながら階段へ走り出した。まだ階段の途中で逃げている最中の連中は僕の雄叫びを聞きギョッとしたような表情で階段をまた必死に駆け上がった。5秒遅れで僕も階段に到達、2段飛ばしで階段を駆け上がる。
もはや電車、ホームにとどまらず駅中がパニックに陥っていた。みんなが僕を見て逃げ出していた。僕がコンコースへ向かうとあっという間にコンコースは僕を除いて無人になってしまった。みな改札を飛び越え逃げていった。改札の駅員すら率先して逃げて行ったし売店のおばちゃんも躊躇することなく店を放棄して逃げていった。
駅だけじゃなかった。僕が逃げるヤツらを追って駅から飛び出すと客待ちのタクシーはあわてて扉を閉め、他のタクシーたちとぶつかり合いボディをベコベコに凹ませながら逃げて行ったしバスときたら乗り込もうとした客を置き去りにして急発進で逃げて行った。その後をバスを追いかけているのか僕から逃げているのかわからない様子で置き去りにされた客がものすごい勢いで走っていった。
当然のように駅前をのんびり歩いているものなどいない。みんな僕の姿を見ると同時に逃げてしまったからだ。
一人くらい簡単に捕まえられるだろうと思っていたがそうではなかった。なんでどいつもこいつもあんなに逃げ足が早いんだろう? 僕は別に俊足というわけじゃないけどそんなに鈍足というほどでもないはずだ。どう考えてもみんなが異常に早すぎる。
・・・・・つまり普通に追いかけていてはどうにもならないということか。
僕は少し考え家に帰ることにした。
家に着くと服を替え、帽子をかぶりサングラスをかけてみた。つまり変装ってヤツだ。
僕は変装が終わると玄関からこっそりと家を出た。果たしてこの変装に意味があるのかないのかわからなかったがきっとしていないよりはマシだろう。
僕はできるだけゆっくりと歩き駅へ向かった。
驚いたことに駅は何事もなかったように活動を再開していた。ちゃんと駅員はいるし売店のおばちゃんもいたしタクシーも客待ちをしていた。ただタクシーのボディはあちこちみっともなく凹んではいたみたいだけど。
誰も僕を見て逃げ出すことはなかった。僕の変装が効いているのだろうか? それともまさかさっきまでのはなんかの錯覚?
いやそのはずはない。だってさっきタクシーのボディが凹んでいるのを見たじゃないか。
僕は考え込みながら歩き、気が付くと元のホームへと戻っていた。
ふとホームの端を見ると見たことがあるような、それでいて誰だか思い出せないヤツがいるのを見つけた。
・・・・・あれってさっき僕を突き飛ばしたヤツじゃないのか?
僕はそっとヤツに近づいた。さっきまでの騒動が何だったのか問い詰めるには一番最適なヤツだ。
僕はヤツに気づかれぬよう無言で近づき背後に立つと、恨みと脅しの意味を込めてドンッと背中を突いてやった(もちろんホームから落ちないように手加減はしたつもりだ)。ヤツは反射的に右足を大きくホームの端ぎりぎりに踏み出しなんとか持ちこたえて転倒することは免れた。一瞬だけ遅れて電車がその右足のつま先をかすめながらホームへ入ってきた。
ヤツが振り返った。
やっぱりどこかで見たことがあるような、でも誰だか思い出せない男だった。ヤツは鬼の形相で僕を睨んでいた。というか鬼だった。
今からはヤツが鬼なのだ。
気が付くと僕は悲鳴を上げながら後ずさり階段を目指して走り出した。もちろんそれは、鬼から逃げるためだ。
当然のように、僕以外の誰も彼もが走っていた。
誰だって鬼になりたくはないのだから。