三匹の猿の話
この世が始まってから、いつからだったか誰にもわからないがその猿たちは気づいたときにはすでに存在していた。
猿は三匹いてそれぞれ「ミザル(見猿)」「キカザル(聞か猿)」「イワザル(言わ猿)」といい、世の中を裏で支配していた。
見ザルは「見ない」、聞かザルは「聞かない」、言わザルは「言わない」をそれぞれが司り、大きな大きな切り立った高い岩山の上で地上を睥睨しながら支配していた。
だいたいにおいて三匹の猿たちは必要もなかったので群れることをしなかった。猿としては‘群れない’ということはある意味特殊なことではあったが、三匹の猿たちはそれぞれがボス的な存在であったからあえて一緒にいることを避けたのかもしれない。三匹の猿はそれぞれ岩山の一角に陣取りお互い付かず離れずで暮らしていた。
ある日のこと、三匹の猿のうちイワザルが珍しく他の二匹の猿を呼び寄せた。
呼ばれたミザルとキカザルは驚きはしたもののすぐにイワザルの元を訪れた。それはとても珍しいことだったから驚き急いでイワザルの元を訪れた。
しかしイワザルを訪れた二匹をもっと驚くことが待っていた。
「ワシはイワザルをやめなくてはならない。」
イワザルがこんなことを言ったからだ。
イワザルがイワザルをやめると言ったことも驚きだったがそれ以上にイワザルが喋ったことが驚きだった。なんと言ってもイワザルは物言わぬ「言わざる」であったのだから。
「いったい突然なんでそんなことを言い出したのだ?」
驚きつつもミザルがそう尋ねると、ひどく辛そうな表情でイワザルは答えた。
「それはやはり説明しなくてはならないだろう。」
そしてイワザルは二匹の猿に事の顛末を語った。
いつものようにイワザルは岩山の頂から支配者らしく下界を眺めていた。
ただし眺めていただけである。イワザルはこの世の支配者ではあったがあくまでも裏で支配するものであったから下界の出来事に直接手出しなどはしない、強いて言えば暇つぶしが目的で下界を眺めているのだ。
その暇つぶしで眺めていた下界の隅で、猟師が獲物を追っていた。追われているのは猿だった。
その猟師は見たところ決して優秀な猟師ではなく、むしろダメな猟師だったが猿は追い詰められていた。その猿は年寄りで群れから離れたところをたまたま猟師に見つかってしまったらしい。
猿は森の中、木の枝から枝をわたり必死で逃げていたが猟師も必死だった。闇雲に放った猟銃が猿の腰あたりをかすめ猿はドサリと音を立てて地に落ちた。それでも猿は再び木にしがみつきまた逃げた。
枝から枝へ、猿は逃げた。しかし傷から流れる血が猿の力を一緒に流してしまう。枝をつかむ手には力が入らず、幹を蹴る足も震えだした。追いかける猟師に捕まるのはもう目前だった。
イワザルにはわかっていた。下界での出来事に直接かかわることはならないことはわかっていた。なぜならイワザルはあくまでも裏を支配するもので直接下界の出来事にかかわることはできないのだ。
それはひどく単純にして明快なコトだった。
がしかし、イワザルは気がつくと岩山から飛び降りていた。さらに岩を蹴りほんの一息の間に森の中へ舞い降りた。
森の中では血を流した猿が地に這いつくばっていた。
血を流しすぎた猿は見るからに手遅れで力なく這いつくばっていた。
追いついた猟師が恐る恐る手を伸ばし獲物を捕まえよとした。
それにはなんの誤りもない。
それにはなんの間違いもない。
猟師は生活するために、猿はその糧になるために、狩るものと狩られるものが存在することにはなんの罪もない。
だから間違っているのはイワザルだった。わかっていたがイワザルは手近な木の大きな枝を引き千切るように折り、それを振りかざしながら猿と猟師の間へ飛び込んだ。
イワザルはさらに突然のことに驚いてうろたえている猟師に向かって手にしていた枝を投げつけた。驚いた猟師はあわてて逃げた。イワザルはさらに落ちている石を拾い投げつけ、木々の枝を折り投げつけた。投げ続けた。猟師はなんとか銃を構え突然現れた邪魔者をどうにかしようとしたが、あまりのイワザルの激しさにたまりかねて泣く泣くではあったがあきらめて引き下がった。
森の中にはイワザルと年老いた死にかけの猿だけが残った。
結論から言えばイワザルの行為はまったくの無駄だった。
すでに年老いた猿は死を払うことはできず、ほんの少しばかり死の恐怖に苦しむ時間が延びただけであった。
「だ、誰か・・・・。」
猿はすでに目が見えぬのかどこにも向かわない手を伸ばし声を絞った。
「誰か、誰もいないの・・・・? ・・・・・誰か・・・・・」
イワザルは黙って年老いた猿の傍らに立った。
すでにイワザルがこの猿のしてやれることはなかった。見ただけでそれがわかってしまったからイワザルはただイワザルらしく黙って立っていた。
そのイワザルの姿はもはや猿には眼には見えていなかった。
「誰もいない・・・・・? 寒・・・い・・ 怖い・・・・・・・ どうして・・・・・誰か、誰・・・・・か・・・」
猿は千切れ千切れに声を絞り出した。
ジワリ、ジワリ、と迫る死の恐怖に一人、孤独という重石を背負いすすり泣くように声を絞り出した。
「・・・・寒い・・・・・・誰か・・・・誰・・・か・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
声はいつまでも続くはずがなく、やがてかすれきって、伸ばされた手からは力が抜け音もなく落ちた。
と、その落ちる手を地に着く直前にイワザルが取った。まるで、この世で一番大事な宝が地に落ちるのを防ぐかのようにあわててイワザルは猿の手を掬うように取った。そしてそのまま猿の傍らに膝を付き、年老いた死に逝く猿に負けず劣らずのかすれた声を絞り出した。
「・・・・・・・お、・・・・おっ・・・・・」
年老いた猿はその声を聞き少しだけ驚いた様子でイワザルの手に、生にしがみつき、もう見えていない眼をグルグルと動かそうとした。そして苦痛に歪む表情をさらにゆがめ、そして少しだけ無理に笑ったような顔を作り言った。今度はイワザルが驚く番だった。
「馬鹿だ・・ねぇ・・・・、お・・前は物を・・・・言って・・はい・・・けな・・・・いんだよ・・・・・・・・。」
そして崩れた。
「・・・・・・・・・・・・・お、・・おっ母・・・・・・。」
イワザルはもう一度、声を絞り出した。
おっ母は物言わぬイワザルの声など一度も聞いたことがなかったというのに最後はその声だけを土産に逝ってしまった。そしてもうもどっては来ない。
「理由はどうあれワシはもう‘物言わぬ言わ猿’ではなくなってしまった。ワシが間違っていることもわかっている。だからワシは‘イワザル’をやめる。」
イワザルがイワザルをやめると言う決意が固いのは見ているだけで他の二匹にもよくわかった。
「ワシが間違っていることもわかっている。」と言いながらもイワザルの表情にはなんの曇りもなかったからだ。
「なるほど、確かにお前のしたことは‘イワザル’としては間違っている。しかし・・・」
話をすべて聞いた二匹の猿のうちの一匹が言った。
「そこで何も言わずに平気でいられるるようなら、むしろその方をワシは許しがたいと思う。」
その言葉を、イワザルはただ黙って聞いた。
「そこで見て見ぬ振りをするようなヤツはワシが許さん!」
そこでもう一匹の猿が思わずつっこんだ。
「‘見て見ぬ振りは許さん’ってお前が言うな、ミザル(見猿)!」
それを聞いた他の二匹は思わずつぶやいた。
「キカザル(聞か猿)、お前、話聞いてたのか・・・・・・・・。」